【山縣有朋の生涯】伊藤博文と共に近代日本を導いて山縣閥を形成した元老 椿山荘などの庭園も有名

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  • Опубликовано: 17 окт 2024
  • 山縣有朋はどのような生涯を送ったのか?
             ↓
    主要な参考文献:
    岡 義武『山県有朋』(岩波書店、2019)
    伊藤 之雄『山県有朋』(文藝春秋、2009)
    筒井 清忠『明治史講義 人物篇』(筑摩書房、2018)
    福田 和也『総理の女』(新潮社、2019)
    出典:
    国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (www.ndl.go.jp/...)
    Wikipediaコモンズ(commons.wikime... )
    毎日新聞社『明治・大正・昭和・平成 歴代宰相 上巻』(毎日新聞社、2004)
    ホテル椿山荘東京(hotel-chinzans...
    山縣有朋記念館(www.general-ya...
    音声ソフト:
    VOICEVOX:もち子(cv 明日葉よもぎ(voicevox.hiros...

Комментарии • 18

  • @西史郎-k4x
    @西史郎-k4x Год назад +2

    良い動画有り難うございます❤

  • @刀禰元彦
    @刀禰元彦 Год назад +6

    山県有朋は下級武士どころか足軽以外の中元であり、身分的には町人以外であったが、家庭がしっかりしていたため、基本的な教養は持っていた。詩歌や書や築庭のセンスは一朝一夕には形成されない。晩年の矢板の農場経営活みればダークなイメージとは違った姿が見えてくる。
    原敬を育て支援したのは山県というが、未熟で無責任な政党政治を弾圧するのは至極当然であり、健全な政党を育成する姿勢をもっと評価して欲しいと思う今日この頃。山県有朋は最下層の身分が頂点になる出世物語こそが彼の明治維新ではと信じる。秀吉よりは上品な人間である。

  • @umiomamoru
    @umiomamoru Год назад +10

    政党を嫌ったが、山縣閥は政党と全く同じ機能を果たした。山縣閥が活きている間は、陸軍省、参謀本部、内務省、司法省、宮内省、勅撰貴族院議員の意見が違うという事は無かった。後の皇道派統制派の派閥争いのレベルの低さとは、次元が違う。山縣本人が下関戦争で欧米の近代兵器の威力を体感していたので、終生軍事的リアリズムを失わなかった。山縣が生きている間は、日本が進路を誤る事が無かったのは、そのためだろう。

  • @戸田賢司
    @戸田賢司 Год назад +4

    目白の御前は、戦前は山県、戦後は田中角栄。

  • @ジェンティルドンナ-y7u
    @ジェンティルドンナ-y7u Год назад +3

    吉田松陰はあまり評価してなかったみたいですね。まあ、他が凄過ぎるせいですが。いつの時代も英雄は短命。英雄とまでは行かなかった(目立った行動をしなかった)山縣が生き残ったのも必然。その為か老いて尚盛んだったのか。西郷の顔を知っているのは羨ましい。

    • @hrhxq824
      @hrhxq824 11 месяцев назад

      松陰に高い評価を受けていた者たちは短命に終わりました。そのような役割だったのだと思います。しかし群像の評価を受けていた者の中から、その後に大きな役割を果たす者が現れました。それが山縣、伊藤などです。それで良かったのだと思います。もし高杉晋作が明治に生きていたらかえって邪魔になったと思います。

  • @mecom3450
    @mecom3450 Год назад +2

    1910年の大逆事件における弾圧の遂行が不人気の理由の一つ

  • @高山雄司-w2z
    @高山雄司-w2z Год назад +1

    ゼネコンの藤田組を可愛がったのに。。。今の自民党に捨てられるとは。。。

  • @やまる-e1c
    @やまる-e1c Год назад +2

    功山寺決起の話もちゃんとしてほしいね

    • @kinagendai-ijin
      @kinagendai-ijin  Год назад

      高杉晋作の動画を作成することが有れば、触れたいと思います。

    • @hrhxq824
      @hrhxq824 11 месяцев назад +3

      高杉晋作は何の準備もなく突然思い立ったように功山寺決起を起こしました。高杉の人生はいつもそうです。しかし山縣狂介は奇兵隊の解散が噂されていたことから予算を前倒しで受け取るなどして決起の準備を着々と進めていたのです。高杉の決起に対し時期尚早と判断したため渋りましたが、それでも高杉が少数で強行したため、準備万端ではなかったもののやむを得ず決起に合流したのです。奇兵隊の合流によって太田絵堂の戦いに勝利し決起は成功しました。山縣以下の奇兵隊幹部が準備を進めていたからこそ事を成すことができたのです。全てが高杉一人の功績と誤解している人が多いように思えます。

  • @不動明-s1l
    @不動明-s1l Год назад +1

    山県有朋?第二海保を作製を指示した陸軍人